クロは本当に物静かだった。
仕事を淡々とこなし、すぐに帰る。
楽しみなんて特になく、週末になると映画館に足を運ぶ程度。
その頃の人生を「無価値な人生」とクロはそういっていた。
20過ぎ、30手前になるまでクロは誰かと親しくするわけでもなく
ただただ毎日をロボットのように淡々と切り抜けた。
自分をあれだけとらえていたオンもこの世にはいない。
さみしさや孤独に押し殺されそうになりながらもクロはただただ与えられた仕事をこなし、
金を得て映画を観る。
その時代に、誰か一人でも「善良な親しい人間」がいたら人生は一転していたかもしれない。
しかしそんな「静かなる隣人」である彼にしのびよるのは「善良な親しい人間」から少し外れた人間。
いつもの映画館で、彼の隣りに座ったのは若い男だった。
「こんばんは」明るい声で映画が終わり次第なれなれしくクロに話しかける男の名前はオンという
酒場で働く20を少しすぎたばかりの青年。
「君、いい名前だね。」
はにかんだ笑顔でクロは答えるとオンは意味もなく笑った。
この名前がどれだけクロにとって運命的な名前だったか、クロはすぐにこの若い男を無条件に信頼した。
オンは、最初のうちはただの友達だった。
オンが働く酒場にクロは何度も足を運んだ。
親しい友人、それ以上でもそれ以下でもない。
しかしそれはすべてオンが作り上げた関係だった。クロはただ信頼していただけで
実際のところは会話もそれほどせず空間にいるだけ。
仲良くみせるためにオンが明るく、笑わせているといったところだろう。
このオンという青年は常に劣等感と焦燥感に包まれていた。
学校もまともにいかず、軽犯罪の繰り返し。ありついた酒場の仕事も実のところ酒場の店主との
不健全な関係による成り立つもの。
社会的にみれば底辺の人間、仕事にも不満ばかり、怒りを向ける矛先も見つからず
ひとまず大きなくくりである社会を憎んでいた。
クロをみたとき、とりわけ自分より下の人間に見えたのだろう。
オンは見下す思いで話しかけたのだ、断られるはずもなくされど距離感は変わらず。
クロにとって変わらない日常に、オンという人物がなんとなく存在するだけだった。
やさしいオンにかつての親の姿を重ねることもできず、名前を呼ぶときにのみ何となく
懐かしむ。
聞かれないと答えないクロだったが、聞かれれば素直に答えていた。
日常的になる二人の時間。
くだらない話をして、友達っぽい振る舞い、不器用ながらもそのときまでも善良な親しい友人だった。
孤独感も少しは薄まるといった感じかな。
それも、いつまでも続くわけではない。
いつものように酒場にクロが訪れればオンは対応するがその日はいつもと違った。
「世の中、バカが多くて困る。」
溜息をついて、オンは暗い表情のまま酒を煽っていた。
「なあ、クロ。ギャングにマフィアにチンピラに、ろくでもない人間が堂々と闊歩している
この世の中をお前はどう思う?世界を支配しているつもりでいる人間を、さ。」
酔った勢いなのか、演技口調で大袈裟な抑揚をつけてオンはクロに尋ねるとクロは首を傾ける。
「…怖い人々だよ。何度も殴られた。」
「お前は、本当に怒らないな。批判する能力のない人間だ。」
オンはたまに、クロに対してそうやって戒める。そのたびにクロは委縮した。
「怒り方がわからないんだ。」
「なら、社会に目を向けろ。この世は怒りで溢れている。憤りは大切な感情だ。感情は
どれも欠けると正常な人間ではない。」
「残念だ。」
「聞けよクロ、俺はイカれた不良どもに怯えるなんて嫌だ。誰にでも怯えるなんてもっと嫌なんだ。
俺はこんな泥臭い町で過ごしていればいつかはそんなバカなやつらに殺される。俺が死んだら
お前は一人だな。」
冗談めいた口調、オンは完全に酔いが回っていたのだがクロはその話に真剣に反応した。
「また、オンがいなくなるの?」
昔の記憶がリフレインする。
親代わりだったオンの悲惨の最期を思い浮かべ、顔が一気に険しくなる。
「また?いなくなったことなんてないだろう。」
「それはいやだ。悪い人がいなくなれば、オンは死なないの?」
「そりゃ悪い奴らがいなくなれば、俺を殺すやつもいなくなるさ。善良な市民は俺を毛嫌いするから俺もまた
静かなる隣人になる。」
そう、その言葉がクロの引き金となったというわけ。
オンはただの愚痴の延長にすぎないものだったのだろう、しかしクロは真剣にオンのことを想っていたのだろう。
それがたとえ、目の前にいる人間のことではないと自覚しながらも。
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